Resonance Field

Drummer 古川”カルロス”日呂之 のブログ

「愛」と「情」の違い。

#ResonanceField

結構長いです💦
祝日なのでお時間のある方は目を通してみてください🙇🏽‍♂️

ツインレイ プロセスにおいて、私自身の課題として常に投げかけられているお題があります。

5次元的な在り方において、それを3次元的な言葉で表現するのが大変難しいのですが、敢えて誤解を恐れずに書いてみます。

本当に混同しがちな「愛」と「情」の違いです。

世の中世知辛く、人情味が薄れてきていると感じますが、人間関係のぶつかり合いやこじれは、ほとんどが「情」が原因なのだと思わされる事が私の身の回りで頻繁に起こります。

こうした物事に対し、善悪やどちらが正しいかを問うものではありません。

まず、「愛」という言葉に対する理解や解釈も、とても曖昧ですよね。

あらゆる宗教が、それぞれの教えに従って「愛」を定義しています。

それらがごちゃ混ぜになって、訳がわからなくなってます。

そして、「情」と「愛」とが完全に勘違いされていると思います。

5次元的な「愛」とは、

ツインレイ プロセスにおいて試され求められるのは「真実の愛」を知ること。

もう一人の自分を愛するってのは、つまりは自分自身を愛せるかって事ですね……

スピリチュアル的な「愛」とは、完璧な信頼と尊敬を意味するようです。

つまり、愛する相手が何処で誰と何をしようが、完璧に信頼して干渉せずに愛せるか?ってことみたいです。
つまり、3次元的な色々な事(怖くて書けませんが…)を全て超越して相手を信頼し続けられるかをサイレントで試されています。
もう一人の自分ですからね……

魂で繋がっている限り、3次元的な事は一切無視して相手を信頼して愛する。

もう一つは、相手は常に自分の鏡写しなので相手を変えようと思う前にそうして欲しいことを自分がやれってことのようです。

これは、ツインレイに限らず全ての人間関係においてやるべき事であると思う次第です。

突き詰めれば「ワンネス」我々は人も動物も自然界に存在するあらゆるモノも全て元は一つ(古神道や古くからある自然信仰アニミズムは全て同じ考えに基づいていますね)だから、ツインレイだからではなく全ての魂に対して同じ「愛」を貫く事ができるか?が、魂の次元上昇、高波動維持へ繋がるようです。

一方「情」とは、3次元的な「目に見える繋がり」を重視するものだと分かってきました。

何度も言いますが、どちらが優れているとか、正しい、間違いとかの話ではありません。
どちらの在り方を選択するかは、完全に自由です。

そして、各々の人がした選択も完全に信頼する事が「愛」なのだと今では少しだけ理解と実感が分かってきました。

「情」が深過ぎると、無条件で愛するのではなく「無条件で味方する」という事が起こります。

これは、もし相手が「魂の成長」を目指しているのであれば、場合によっては相手の成長を著しく妨げるものになります。

ある人とある人がトラブったとします。当人同士は面識がなく、それぞれが「友情」という情で繋がった人間を無条件で「味方」することによって起こるトラブルです。

唯一私だけがその登場人物全てと面識がありお付き合いがあるとします。

これ、本当に困った事態です💦

誰の味方もできません。

事実が全て明らかになれば、おそらく何事もなく全員が握手できるのだと思います。

でも、それぞれ別個に繋がった「情」が邪魔をします。

「情」で動く人は、面識のない人を信頼しません。

逆に、面識のある人と面識のない人が揉めた場合、面識のある方を無条件で味方します。
仮にその人が嘘をついてたとしても、面識のない人間より面と向かって自分に話す嘘の方を信じます。

「情」が働いていると思います。

「愛」があれば、「お前が揉めたんなら、お前が解決しろ」になると思います。

つまり、「お前」にはそのくらいの問題解決できる力があると信頼している。

これが「愛」だと思います。

「お前が困っているのなら、俺がいつでも味方する。俺が出ていって解決してやる。」

これは「情」です。

さらに何度も言いますが、良し悪しを言いたいのではありません。

「情」で繋がったコミュニティーは、本当に居心地がいいし、生きていく上で最も大切なことだとも思います。

しかし、さまざまな誤解や誰かのちょっとしたヤラカシが一大事に発展してしまうのも「情」が原因だと思います。

全ては各々の「選択」なので、現象として見えたことをそのまま書いているだけですが、「愛」と「情」の違い、「愛」と「愛情」の違いを、これでもかっ!てくらいに学ばされている今日この頃です。

私は「情」よりも「愛」を選択する道を選んだつもりです。

なぜなら、本当に愛するのであれば相手の魂の成長を妨げる「情」を手放さなければ、相手のためにならないからです。

魂で繋がっていて、相手のことを信頼できるのであれば「ならんものはならん」と言えてこそ「愛」だと思います。

しかし、本当に信頼できていれば会えなくとも話さなくても私自身が安心していることが「愛」の証なのだと考えさせられるわけです。

ツインレイ プロセスにおいて、相手を気づかって会えない時に「相手を心配すること」自体が「不信、信頼不足」と宇宙に判断されます。

だからと言って、「それじゃダメだな」とか「反省しなさい」とかのジャッジは存在しません。

因果応報、「そっちを選ぶのなら当然この結果ね〜」くらいの感じで、選択に応じた結果がちゃんと現れるだけの話なんですね。

だから、今現在の我々の人生は、我々自身が選択して望んだ通りのことが全て実現されているというのはホントだとつくづく思わされます。