Resonance Field

Drummer 古川”カルロス”日呂之 のブログ

巨人の肩の上で / 荒川央

荒川央 (あらかわ ひろし)
 1991年 京都大学理学部卒業 1996年 京都大学理学博士 (分子生物学、免疫学) バーゼル免疫学研究所 (バーゼル)、ハインリッヒ・ペッテ研究所 (ハンブルク)、ヘルムホルツ研究所 (ミュンヘン)、マックスプランク研究所 (ミュンヘン) を経て分子腫瘍学研究所 (ミラノ)所属

「巨人の肩の上にのる矮人 (わいじん)」。意味は「先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見すること」です。「巨人の肩の上に立つ」「巨人の肩に座る」「巨人の肩に登る」「巨人の肩に乗る小人」などの形でも使われます。科学者アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡で用いました。

矮人とは背の低い人の事です。「巨人の肩の上」というのは、何かの発明や発見があった場合、そうしたものは単独で存在するものでも一個人が成し得たことでもなく、膨大な過去の蓄積という「巨人」の上に成り立っているのだとする考え方の比喩です。今現在行われている研究も、目下研究している人間だけのものではなく、実際には先人達による長い積み重ねの歴史と礎の上に成り立っています。

さて、科学における「捏造」とは存在しないデータや研究結果を意図的に作成する行為です。科学の発展の際に生まれる新たな発見は嘘や捏造によるものではないはずである、と通常は認識されています。経験のある研究者は捏造の怖さを実際によく知っているからです。ひとたび捏造が発覚すれば、研究者としての人生は文字通り終わります。所属機関からは解雇され、研究助成金は没収または返還が要求されます。研究機関で再び採用されることも難しくなり、出版社からは論文の掲載を断られるようになります。そのため、共同研究者も離れていきます。


「これだけ厳しい制裁があるのだから、研究者は捏造などしないだろう。」それは研究者にとっての「常識」であり共通認識です。そしてその根底にあるのは性善説です。ところが実はそこに落とし穴があります。もしもその土台や拠り所としている過去の知識の蓄積の中に「意図的」な捏造が含まれていた場合、一挙にその全てが崩れて常識的な科学や医学の判断だけでは対応できなくなってしまうのです。そういった意味では科学者とは悪意に対して非常に脆弱な存在です。

現代はあらゆる研究の分野において細分化が進んでいます。例えば生物学だけを見ても非常に多くの分野があり、それぞれの専門分野だけでも膨大な知識の蓄積があります。一個人に勉強できる量にも時間にも限界がありますので、基本的に現場の研究者は自分の分野の最先端の研究を追いかけるだけで精一杯です。したがって自分の専門分野にしか興味がない研究者も多いのです。異なる分野にまでまたがる知識をつなげ、科学を俯瞰する習慣を持つ研究者は少数派です。

同一分野の人同士で話す時は、お互いにその分野の膨大な予備知識がある事が前提となる事が多くなります。そのため異なる分野の研究者の間では会話が通じない事がよくあります。十分な予備知識がないためにお互いの話がよくわからないのです。研究者はとくに研究者以外の方と科学の話をする事も大切だと私は思っています。むしろ予備知識のない方とお話しして、自分の話を理解してもらおうとする事は自分にとっても勉強になるのです。投げかけられた素朴な質問により、自分が科学の世界の中でどういう場所にいるかを再認識できたり、大切な疑問に気付かされる事もあるからです。

研究者に限らずどんな専門職に就いている人でも、専門外の事は専門外でしょう。同語反復はいつも正しいのです。そしてほとんどの人は忙しすぎるのではないでしょうか。自分の専門分野については深く勉強していても、それ以外の情報をマスメディアに頼る人は多いでしょう。研究者でもコロナパンデミック、コロナワクチンについての情報源はマスメディアのみという事もありそうです。ブログの主旨であるコロナに話を戻します。

現在進行形で世界中の人々は否応無しにコロナ騒動に巻き込まれています。コロナワクチンは最先端の科学技術の産物であり、コロナワクチンが何かを理解しようと思うと、自分は科学に興味がない、免疫学や遺伝子など分かるはずがないなどとも言っていられないのです。案外、コロナ騒動に関心を持ち自身で勉強してきた人は、部分的には職業研究者よりも知識があることもあるのです。コロナワクチンについて自分で調べてきた方はADEや抗原原罪というものについて聞いた事があるかもしれません。反対に、ADEや抗原原罪といった概念すら知らない研究者、医療関係者もたくさんいると思われます。

子供との会話でよく聞かれるのは「これは何?」「どうして?」でしょう。まさに世界を理解しようとする好奇心の象徴です。一般論として好奇心は子供の特徴でもあり、歳を経るにつれて薄れていくのも普通です。子供のような素直さは大切です。コロナ騒動に早く気付いた人の多くは自分の感覚を大事にした人ではないでしょうか。


良い研究者の資質の一つは「好奇心」だと私は考えます。好奇心は物事を探求しようとする根源的な心。好奇心旺盛な人は自分の専門分野以外のものにも興味を持つものです。本来は専門分野間の垣根なんてあってないようなものなのです。世界は繋がっています。知らない事の中には面白い事もたくさんあります。分かっている事と分からない事を比べれば、誰にとっても分からない事の方が圧倒的に多いのです。そして世界は謎で満ちています。本当に賢明な人は自分が無知である事を知っています。

先人の積み重ねた功績に基づくものは研究だけではありません。この社会を構成する様々な仕組み。政治、報道、医療、教育なども過去の蓄積から構築された巨人です。それらは独立しているように見えても根本には経済があります。

「巨人の肩の上にのる矮人」の表現にあるように、巨人に乗っている人の背丈は小さいわけです。しかし、人間とは弱いものです。巨人の力が強く背丈が大きいほど、その肩に乗っている小さな人間はその力を己のものだと思い込み、そこから見下ろした景色を見ては、それを己の背丈だと考えてしまいがちです。コロナ騒動からわかってきた事は、これまで漠然と信頼してきたものの価値や正当性も幻想のようなものかもしれないという事です。学歴も職業も収入も自分ではなく自分が乗っかっている巨人の力であり、そうしたものも幻想なのかもしれないのです。


さて、ここまで巨人とは善なる巨人としての話として進めて来たように思われるかもしれませんが、実は「巨人」は必ずしも善良であるとは限りません。巨人は食べ物や知識、仕事などを与えてくれるかもしれませんが、それは私達のためではなく巨人自身のためかもしれません。競争の激しい分野では、広い通りを同じ方向に向いてたくさんの巨人に乗った人々が競争しているようなものです。しかし、その広い通り以外にもまた道はあり、そして道の外にも大きな世界が広がっています。遠くに見える山の向こうには別の世界があるかもしれず、そこには新たな発見やそのヒントもありそうです。


巨人の肩に乗っている限り、巨人の肩の上の視線からしか世界は見えません。巨人から降りて歩いてみると別の景色が見えるんじゃないでしょうか。降りた途端に巨人が跋扈する世界で巨人に踏み潰される危険もあるかもしれませんが、それでも巨人から降りた世界では自由があり、行き先も自分の足で決める事ができます。全ては自分次第でしょう。

コロナワクチンが危険な理由:免疫学者の警告 https://www.amazon.co.jp/dp/4763420038/ref=cm_sw_r_cp_api_gl_i_CQ36BVM8J3C795XYYK4E