Resonance Field

Drummer 古川”カルロス”日呂之 のブログ

超おすすめの本 / おおきな木ホームクリニック 院長ブログより

先日とある本を読みました。

神戸大学の教授の先生が書いた本です。

ワクチンの境界 ― 権力と倫理の力学 / 國部 克彦

哲学的な文章もあって、読解力がない自分は所々難解に感じてしまうところもありましたが、すごく納得してしまうところだらけでした。
この教授は基本的にはワクチンには反対も賛成もしていない立場です。
しかし客観的にみて、やはりこのワクチン政策はあまりにもおかしいことだらけであることを指摘しています。
あまりにも納得できることばかりで、重要な文章ばかりだったものだからこんなことになってしまいました。

いつも重要な文には線を引っぱっているのですが、超重要と思うところには付箋貼ったりしています。
今回は付箋だらけ。
ここまでになるのも珍しいです。

ちなみに画像の右奥にぼやけて写っているものは手榴弾のおもちゃです。
金属でできていて妙にリアルです。
あっ戦争マニアとかじゃないですよ。
イタズラのためにたまに使用したりします。

そんなことはどうでも良いのですが、上記の本は絶対に読んでおくべきです。
「そうそう、こういうことが言いたかったんだよ」ってことばかり書かれています。
こんなふうに的確に文章で表現できるなんて素晴らしいと羨望の眼差しで読んでいました。

そんな中で自分が大事だと思ったものを一部ピックアップします。
一部というか、結構な数になってしまいましたが…。

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・民主主義のためには徹底的な議論が必要と普段はあれだけ主張しているマスコミも、この重大な問題について国民的な議論が必要であると声を上げることはなく、むしろ異論を「デマ」と称して議論を封じるように動きました。
逆に顕在化したのは、政府の方針に疑問を持ったり、検証したりすることもなく、それを素直に信じて行動する人々の動きです。

・リスクに対する個人の感じ方は様々で、それを一様に国家が規定することは人権に触れる問題でもあり、倫理の問題に関わります。

・対策は必ず負の効果も伴いますから、その効果を常に検証しながら勧めることが求められます。

・仮に政府の見解が正しかったとしても、国民がその見解を簡単に信じて行動してしまうことは、政府の見解が常に正しいわけではありませんから、将来に大きなリスクを残すことになります。

全体主義は、一つの「正しい考え方」のもとで全体をまとめ、その考え方に従う人々と従わない人々との間に境界線を引き、従わない人々を徹底的に排除するように動きます。

・権力が特定の「倫理」を押しつけてくる場合には特に注意が必要です。なぜなら、そのような「倫理」は、「あなたのため」とか「社会のため」というように、簡単には否定できず、すぐに信じてしまいそうな言葉を伴って、人々の心の中に入ってくるからです。
自分の内部に権力が侵入するということは、管理される領域が広がるということで、その分自由が制約されることになります。

・19世紀の数学者・哲学者ウィリアム・クリフォードの言葉。
「人間は軽々しく物事を信じてはいけない」
クリフォードは、軽々しく物事を信じることは悪であり、罪であると、厳しく糾弾しています。

・権力が内面から人間を管理するようになると、人間は思考を停止し、指示に従う機械のようになってしまうでしょう。

新型コロナウイルス感染症対策が、国家の権力を利用して、国民を思考停止にして「凡庸な悪」を生み出しているとすれば、それは政策の是非に関わらず、重大な事態が進行していることを意味します。

・社会は、それらが難問であるにもかかわらず、簡単に一つの答えを出して、それに向かってすすもうとする傾向があります。そして、一旦進み出してしまうと、その方向が正しいか否かについての議論までも封じ込めようとします。

・何かを信じて疑わず、それを他人にも強要するようになれば、それは問答無用の野蛮な社会でしかありません。

・私たちは、あまりにも政府や専門家の言うことを簡単に信用していないでしょうか。政府が言うから、専門家が言うからという理由だけで信じていないでしょうか。政府が言うからという理由で、信用できる根拠はどこにあるのでしょうか。専門家だから信用できる根拠はどこにあるのでしょうか。そもそも彼らは、本当に専門家なのでしょうか。

・スペインの哲学者オルテガの言葉。
「専門家は、自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては、非常によく『識っている』が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである」

・一番の問題は、自分の専門領域でも限られた知識しかないのに、専門でもなんでもない領域についても、まるで専門家のようにふるまうことです。
オルテガはこの点について、「自分の知らないあらゆる問題において無知者としてふるまうのではなく、そうした問題に関しても専門分野において知者である人が持っているあの傲慢さを発揮する」と述べています。

・実は専門外の分野なのに、専門家のふりをして発言する「専門家」が後を絶ちません。

・堂々と「こうすべき」「ああすべき」という人たちは、オルテガの言葉を借りれば、「専門家」というレッテルを貼っただけの野蛮人ということになります。

・彼ら(科学者)は、データから学術的な結論を出して論文を書く行為については専門家ですが、その結論から実際の行動を判断する専門家ではありません。

・日常生活では、実験室のように条件を一定にすることはできませんから、研究結果をそのまま適用することには原理的に無理があるのです。

・因果関係が評価できないのは情報不足のためという「言い訳」が成立して、いつまでたっても真相を究明しなくてよい構造になっています。

・ワクチンをめぐる専門家や科学者の説明が「科学的」ではない理由は、科学ではない領域にまで踏み込んで議論しているからです。

・「ワクチンのメリットがリスクを上回る」という定番のフレーズは、専門家が決めるべき問題ではなく、社会が決めなければならない問題のはずです。

・これほど緊急で対話や議論が必要な問題について、対話が成立していないのは、ワクチンをめぐる対話や議論を封じ込めようとする力が働いているからです。
クリフォードは「疑問を押し殺したり、他人の質問を妨害したりする者は、何世紀にもわたって、決して消し去ることのできない冒涜の罪を犯したことになる」と厳しく批判しましたが、その冒涜の罪がまさに起こったのです。それは、正常な疑問や懸念までも「デマ」として封じ込めようとする圧力によって生じました。

・これらの「デマ」は、科学的に検証しなければ、「デマ」であることを決めつけることができないものばかりで、むしろ誰もが持ちうる不安や疑問に近いものです。しかし、それらが「デマ」とされているのです。

・もし、これらの主張を「デマ」であると科学的に主張したいのであれば、それを証明する科学的根拠がないからというのではなく、それらが間違っているという科学的根拠を提出しなければならないはずですが、それは非常に困難です。

・一方的に「デマ」であると決めつける行為は、科学的なものではありません。科学的な議論をせずに、科学的根拠がないという理由で否定することには、明らかな矛盾がありまあす。

・問題の核心は、「陰謀論」ではなく、ワクチンに関する正当な疑問の封じ込めにあると見るべきでしょう。

・現時点での通説は常に修正される可能性に開かれているわけです。このような世界で「正しい」と言い切ることや、自らに対する批判を「デマ」や「誤情報」と主張することは、科学の進歩をそこで停止させることと同じです。

・政府機関が「デマ」や「誤情報」とそれに対する「正しい情報」を示すことは、本来、十分な時間をかけて科学的な討議を経て結論を得なければならない問題に対して、議論を拒否するという姿勢を示していると見るべきです。しかも、「正しい情報」に対する疑問や批判を、「デマ」や「誤情報」というレッテルを貼ることで、正常な疑問までも封じ込めようとする圧力が存在しています。

・公的機関からの情報であるから「正しい」とは限らない。

・「正しく恐れる」ということは、「このように恐れよ」と命令しているわけで、そこでは、私たちの「恐れ方」が決められてしまっています。
しかし、恐怖という人間の根源的な感情を、他人が決めることなどできるのでしょうか。

・恐れ方を指示されて、それが間違っていたら、それこそ生命にかかわる場合もあります。

・「恐れる」という感情は、リスクを回避しようとする人間の行動の源泉ですから、それが何らかの指示でコントロールされてしまうと、その指示が生命にかかわる場合があります。

・さらに見逃してはならないことは、「正しく恐れる」と言うことで、人間の「恐れる」という感情面にまで、政府や社会が侵入してきていることです。

・「恐れる」という主観レベルになると、人間のより深いレベルがコントロールされようとしていることを意味します。

・近代以前は血筋と宗教で統治されていた国家が、近代では民主主義と科学で統治されるようになりました。しかし、その科学が、新型コロナウイルス感染症という緊急事態を前にして、簡単に宗教化してしまっているわけです。その理由は科学が政治の手段として利用されるようになっているからです。

・政治に利用される科学は、もはや科学者の良心だけに基づく純粋な科学ではなく、自らの主張の神聖さを汚すものを一切認めない宗教と化してしまう傾向を持ちます。一切の批判を許さずにワクチンを擁護する専門家の言説はまさに宗教そのものです。
ワクチンの効果や安全性のみを強調する専門家の行為は、科学的行為というよりも、ワクチンの正当性を高めようとする政治的行為であり、彼らがまとっている「科学」はまさに宗教と同じ様相を呈してしまっているのです。

・経済人はワクチンについても、最終的には経済的合理的な判断しかできません。…極端な言い方をすれば、「ワクチンを打って、感染症が治まって経済が回る」なら、少しくらい犠牲が出てもやむをえないと考えていると言っても、間違いではありません。

・生権力は自らの権力を、「あなたの健康のため」という、すぐには否定できない言葉を使って行使してくるので、普通の思考をしている限りは簡単に抵抗できない仕組みになっています。抵抗するどころか、健康診断の数値に一喜一憂する姿はまさに飼いならされた動物そのものです。しかし、これは生命や健康という人間の最もプライベートな領域への権力の侵入なのです。

・生命や健康だけを重視するということは、人間の尊厳である精神性を排除してしまう危険性を持つのです。…もし、人間の価値が生きることだけになってしまうと、人間は動物と何も変わらなくなってしまいます。

・ほとんどの人は「健康になりたいから」とか「長生きしたいから」という単純な理由で生権力の傘下に自ら進んで入っていくのです。その結果、不要な治療を受けて亡くなってしまう人が後を絶たないのですが、それを恐れるどころか、そこまで延命できたことを喜ぶようになってしまうのです。

・生権力は、病気から人間を守ることを目的のように見せかけて、人間を最も深いところから統治することが目的ですから、実は病気そのものを撲滅することを目指していません。むしろ、病気を作り出して、それを治療するというマッチポンプ的なプロセスを通じて、膨張してきました。「早期発見・早期治療」はその典型です。

・武器の代わりに薬剤を、兵士の代わりに医師を使い、そして敵を倒すために惜しみなく財政支出する姿は、まさに戦争と同じ構図です。

・人類が定期的にワクチンを接種してウイルスに備える生活になれば、生権力はまた一つ人類を統治する武器を手に入れたことになるので、ウイルスを撲滅するよりも大きな成果を得ることができるでしょう。

・すでに問題の焦点は、新型コロナウイルスの撲滅よりも、ワクチンの普及に変わってきています。

・健康や延命を理由にすれば、人々はどんな権利の制限でも受け入れるということが分かってしまうと、生権力はそこからどんどん勢力を拡大していこうとするでしょう。そのときに、健康だけが人生ではないということが主流になれば、生権力は退潮していくはずです。

・「役者」(=政治家、役人、科学者、専門家、経済人など)は、役を演じることでシステムから生活の糧を得ているので、全力でシステムを守るように動きます。もちろん、「代役」はいくらでもいますから、権力の指示に従わない「役者」は交替させられます。

・民主主義のプロセスに従って抵抗しようとしてもまず成功しません。政治家や役人に陳情しても、彼らはシステムの一部を構成する「役者」ですから、ほとんど効果はありません。仲間を集めて議員に立候補しても、システムの支援がなければ当選するのは非常に困難ですし、たとえ議会に少数の議席を確保できたとしても、システムによる多数決の原理で簡単に否決されてお終いです。

・問題の本質は、人間ではなくシステムですから、政治家や専門家を批判したり、製薬メーカーに抗議したりしても何も変わりません。

・権力を守るために、権力者はなりふり構わぬ動きに出ることがあります。本来、思想信条の自由や表現の自由は民主主義国家の最高の規範のはずですが、それすらも踏みにじって、自らと異なる意見をデマとして封じ込めようとしているは、その表れと言えるでしょう。

・審査する専門家と製薬会社の利害が一致していたら、国民にはどうすることもできません。科学と経済が結合してしまうと、そこに民主主義のプロセスは介入できないのです。

・システムは、自分自身の権力を損なう可能性のある対象については、議論を避けようとします。…ワクチンについても同様の状況が生じたことは、生権力にとって、それだけワクチンが重大な役割を担っていたからに他なりません。

ナチスに加担した人々は、根っからの悪人であったわけではなく、自分自身で思考することなく、ただナチスに従っただけでした。アーレント(ドイツ出身ユダヤ人の哲学者)は、この自らは思考停止して何かに従う行為そのものを「凡庸な悪」と称し、これこそが全体主義の正体であると主張しました。同調圧力に屈することは、それだけで全体主義へつながる悪になりえる危険なことなのです。

ナチス支配下でも、このような「凡庸な悪」に抵抗した人々は少数ですが存在しました。ナチス体制に協力せず、公的な生活に関与することを拒んだ人々です。ナチス支配下では、公然とした反対運動は死を意味しますから、表だって行動はできません。しかし彼らは、ナチスに協力しないという抵抗を示すことで、全体主義に抵抗したのです。

・これらの人々は、「大多数の人々からは無責任と批判されたのですが、あえて自分の頭で判断しようとした唯一の人々だったのです」。「凡庸な悪」と「善」を分ける境界は、自分自身で考えるかどうか、つまり判断の基準を自分の内部に持っているかどうかであったわけです。

・このような人々(自己をよりどころとして抵抗する人々)は、平時には見分けがつきませんが、異常事態が生じれば、自分自身を基準にして行動するので、彼らは全体の動きとは反対方向に向かいます。しかし残念ながら、このような人々はいつの時代も少数派です。

・「凡庸な悪」の側についてしまっている人々でも、完全に納得して従っているわけではありません。そこに少しでも、自分の頭で考える余地が残されているなら、将来、判断が変わる可能性は十分にあります。そこに人類の最後の希望があります。そのために必要な行動は、自分が納得できない場合はシステムに協力しないことです。それが、迂遠に見えても、最も効果的な方法です。

・システムに抵抗するためには、その必要性を感じたなら素早く行動を起こすべきです。自分自身の中でシステムに侵されていない部分、つまり一番自然に近い部分を基準として行動することが求められます。自分にとって望ましくないと思ったら、誰が何と言おうと、頑なに拒否を貫くだけで、賛同者が必ず現れてきます。
…そのときには、それぞれの人がめいめいに行動することが有効です。それは、当然無秩序で統制がとれませんが、このような非組織化された動きに対処することが、システムは一番苦手です。

・「打つのも、打たないも自由」ではなく、十分に調べずにワクチンを「打つ自由はない」のです。私たちは、人類の義務として、自分が納得するまでは、行動してはいけないのです。なぜなら、すでに第1章で述べたように、それが誤っていたときに、何世紀にもわたる害悪を残すだけでなく、たとえ結果的に正しかったとしても、軽々しく信じてしまう習慣を強化することで、次の大きな間違いを犯しやすくなってしまうからです。

全体主義に抵抗するためには、行動の基準を全体に合わせるのではなく、自分自身に合わせないといけません。

・社会を維持するために(ワクチンによる)少数は犠牲になってもよいのでしょうか。これは科学の問題でも、経済の問題でもなく、倫理の問題です。この点についての議論を科学者や経済人に任せることは絶対にできないことです。にもかかわらず、医療の専門家がこの問題にまで、「専門家」として口を出すことや、経済人が自らの組織の利益のためにワクチンを利用しようとすることに、誰も批判しないどころか、むしろ歓迎する風潮が生まれています。

予防原則は、環境問題や遺伝子技術など、人類に対する未知のリスクについて、科学的に実証された因果関係が不明の段階でも、将来の予測されるリスクを前提に何らかの対策をとるべきという考え方です。それは、科学的な証拠が出てから対応するのでは、手遅れになってしまう恐れが大きいからです。

予防原則は、科学的証拠が十分にない場合に適用されるわけですから、現在のワクチンをめぐる議論のように、科学的な証拠がないからリスクはないなどという主張は認められません。
…理論的にリスクが高いと推察されるならば、科学的証拠がなくても、その活動を停止すべきという結論になります。
遺伝子技術は、人類にとって未知のところが大変大きいため、予防原則を適用すべき最も重要な対象の一つとされています。しかし、それが人体に直接注入する遺伝子ワクチンに適用されないのは、いったいどういうことでしょうか。

・科学的証拠がまだ十分蓄積されていないワクチンについて、リスクについての科学的根拠がないことを理由に安全性を強調し、感染症対策については、科学的証拠を収集できる段階になっても、検証を怠ってウイルスの恐ろしさばかりを強調して、科学的根拠の乏しい感染対策を行ってきたのです。

・利己と利他の関係は、最も基本的な倫理的課題であり、宗教的な課題でもあります。それは、人間がいかに生きるべきかという、とても深遠な課題です。しかし、そのような重大な問題であることをまったく考慮に入れず、新型コロナワクチンをめぐって利他を強調する主張や宣伝が垂れ流されていることは重大な問題と言えましょう。
(←CMなどで「あなたとあなたの大切な人を守るためにも、ワクチン接種をご検討ください」とか言っていることに対して)

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どうです?
量が多すぎて自分はこれを書いてすごく疲れました。
そんなことはどうでも良いのですが、ずしりくることがもっともっと書かれています。

ワクチン推進派の専門家もどきは、この本を読んだらどう思うんだろうか。
何も思わないんだろうな。

厚労省に文句言おうが、ワクチン政策をやめさせることなんてできません。
国会議員に文句言おうが、ワクチン政策をやめさせることなんてできません。
もっと上のところで決められていることですから。

所詮彼らも操り人形でしかないのです。
自分の立場を守るため、自分の家族を守るため、気づいていても興味のないフリしてやっていくしかないのです。

それが今の社会のシステムです。

このシステムを変えようと思って、高い志を持ち、熱い気持ちで議員になっても、一定の票は獲得できるかもしれませんが、日本を変えることはできない。
お金で動かされる国会議員の方が多いから。
たとえ総理大臣になったとしても、日本を変えることはできない。
もっと上の方から司令が来るから。

輸入にばかり頼っていたり、インフラにも外資系が入り込んでいる日本にとって、完全に独立してやっていくことは今や不可能です。
孤立したら国民が苦しみます。
上の人に気に入らないことをすれば、日本なんて一発で経済崩壊、飢饉が訪れますよ。

高い志を持った人が総理大臣になったとして、「国民が飢えや貧困に苦しむことになるがそれでもワクチン政策やめるのか?」と脅されたらどっちを選ぶのでしょう?

国民を守りたいと思うからこそ、ワクチン政策を受け入れてしまうのではないでしょうか。
ワクチン政策やめれば、全国民が苦しむ。(ついでに自分に次はない。命の保証もない。)
ワクチン政策続けても、気づいてもらえれば助かる人も多くいる。
どっちが多くの国民を救えるかといったら、ワクチン政策を受け入れる方になってしまうでしょう。

例えば、真冬に日本全土でブラックアウトが起きたらどうなると思いますか?
犠牲者は半端ない数になります。
人工地震だって陰謀論と馬鹿にする人が未だにいますけど、昭和の時代に人工地震が成功したって主要な新聞に報道されたりしていますからね。
今の時代十分可能なことです。
経済崩壊が起きれば自殺者が急増します。

ちなみに人工地震の新聞報道はこれ。
昭和59年3月12日の読売新聞です。

f:id:HiroshiCarlosFurukawa:20221201024313j:image
画像はネットよりお借りしました。
他にもいっぱいあります。
「人工地震 新聞記事」などで画像検索してみてください。

批判される方もいるかと思いますが、いろんな委員会とかで厚労省の官僚を詰め寄ったり、国会で活動しても、結局茶番にしか見えないのです。
根本を変えることはできない。
メディアでも報道されないですし。
なんなら公開された動画は削除されますし。

大体国会自体が演劇ですしね。
事前に質問と答弁が用意されていますから。

ただ一部の人かもしれないけど、ネット情報で気づく人もいるかもしれない。
そういう意味では、意味のあることではあるかもしれません。

一人でも多くの人に気づいてもらえるように各地の医師たちなどが情報発信したり、啓蒙活動を行っています。
医師だけでなく、自分でしっかり勉強し、啓蒙活動されている方も多くいます。
それによって一人でもワクチン接種が回避できたら意味のあることです。
地道にやっていくしかありません。

国を変えようとしたり、政治家や官僚を責めても無駄です。

自分はその点は冷めた目で見ています。

社会のシステムは簡単に変えられません。
社会のワナというものは消し去ることはできません。
ワクチン政策も廃止にすることはできません。
国民一人一人が気づいて、みんなが個々にワクチンを拒否しなければなりません。
各自おのおので行動するってことです。
それしか自分の身を守る方法はありません。